風景に潜む「魔性」。そこには渡り鳥を何万キロの彼方まで飛び立たせる得体の知れない「成分」・・・征服者を地の果てまで駆り立てる、冒険家を未知の大海原に乗り出させる高揚成分が含まれいます。人はそれを「神」や「啓示」と呼び、学者は「トリガー」、うっとり探偵団は「魔性」と呼びます。そんな風景に潜む妖しを探検します。

郷愁の画報 芸術の風景
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風景には底知れない力が潜んでいる
 誰もいない場所・誰もいない時 ・・・人は風景からのメッセージを”受信”する。
     
  アメリカ西部で走行車が道路から外れる事故が多発。誰もが「単調な風景が眠気を誘った」と考えました。しかし認知心理学の専門家は「彼方に聳えるシェラネバダの峰々と雲間から地上を照らす後光・・・まるで神が宿っているような光景が運転者に酩酊(トリップ)状態を引き起す」。科学が風景に潜む”魔性”に気付いた瞬間です。それは事故を誘発するだけでなく、時に芸術家や哲学者に閃きや啓示を与え、征服者や冒険家を駆り立てる”何か”でもあります。一度でいいからそんな”魔性”に触れてみたければ誰もいない場所・誰もいない時の海岸や平原や森の中に一人身を置いてみましょう。細胞が覚醒して脳の奥底に眠っている何かが呼び覚まされる筈です。
     
風景には人を夢と欲望にとり憑かせる魔性が潜んでいる
 人間が一番元気だった時代。摩天楼が夢と欲望の象徴になった1900年代のアメリカの残像です。
     
  19世紀末の第二次産業革命は広大なアメリカで爆発しました。石油のロックフェラーが、カーネギーの製鉄が、ヴァンダービルトの鉄道が、フォードの自動車が、エジソンの電気が、ベルの電話が瞬く間に全米中に広がっていきました。労働力はいくらでも必要で、ヨーロッパやアジアから大量の移民が殺到・・・多民族国家アメリカの誕生です。その結果、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコ、ロサンジェルスなどの「大都市」が出現しました。そこには天にそびえる摩天楼が夢と欲望の虜になった人々を見下ろしています。こうして幕を開けた20世紀は僅か数十年後には世界を地獄へ引きずり込んだ2度の大戦を引き起こしています。この写真ギャラリーにある超精密な8×10インチ乾板ガラス写真が、人間が一番元気だった「良き古き時代」に潜む魔性を見事に写し撮っています。
     
レイヤーで風景の意味は一変する
 どんな風景を見るかでなく、どこから見るかで印象は一変する。それがレイヤー。
     
  同じ海辺でも生身で砂浜に座って海を見ている時、我々は単純に「風景に身を置いている」と感じます。しかし部屋の窓越しに見る時はその部屋の在り様で風景の印象は大きく違ってきます。例えば小洒落たカフェから眺めれば「陶酔」。絶海の牢獄から見れば「絶望」。「額装効果」と呼ばれるこの心理的作用は風景そのものに絶対的な要素があるとは限らず、時と場合によっては我々は脳内で作り出した幻想を見ていることを示しています。時にそれはベテラン機長や船長に大惨事を引き起させる何かでもあります。Viewボタンで風景とレイヤーを切り替えてみて下さい。フレーム(レイヤー)によって風景の印象が一変するギャラリーです。
     
風景には人を懐しさで包む力が潜んでいる
 何気ない日常風景にも、細胞をうっとりさせる”懐かしさ”が潜んでいる。
     
  「懐かしい」と感じることで脳細胞は活性化します。「観光地へ行くお金も時間もありませんよ」なんて嘆く人は風景に潜む「覚醒力」や「陶酔力」を感知するアンテナがない人。観光客だらけの場所に行っても脳細胞は覚醒も陶酔もする筈もなく、海外で日本人観光客の集団に遭遇して幻滅した経験者も少なくありません。「同類」を見て安心する人もいますが、せっかくの非日常感がぶち壊しになったと感じる人もいます。細胞アンテナは誰もいない場所、誰もいない時間に、誰にも邪魔されることなく風景と「対峙」してこそ覚醒して、見えなかったもの・感じなかったものを感じます。この蘇生感が味わえない人は不幸かも知れません。その実体を「うっとり画報」や「うっとり図鑑」 で報告します。
     
風景には人を陶酔させる力が潜んでいる
 居間を気持ちのいい空間にするのではなく気持ちのいい場所を居間にする。
     
  昔のお金持ちや貴族が風景を貸し切りで楽しんだ「ピクニック」や「野点(のだて)」・・・それを更に進化させたプロジェクトが「風景との同化」。居間を気持ちのいい空間にするのではなく、気持ちのいい場所を居間にする。誰もいない時、誰もいない場所へ「床とテーブルと椅子」を設置するだけです。勿論、簡単には実現できません。設置・撤去・排水・使用許可などの技術的問題はクリアできるとして、最大の障害は敢えて言えば「大衆=愚衆」。車で道を塞ぐ・ゴミを棄てる・立ちションをする・・・白川郷の「故郷活性化」の失敗がいい例です。マスコミにも責任の一端があります。「いいもの・美しいもの」を守る・活かす取り組みは進んでいます。当面はギャラリーで楽しんで下さい。
     
”人生の風景”にふさわしい場所がある
 ”生活の風景”しか見えない人、”人生の風景”が見える人。その差が幸福。
     
  人類はいずれ壁面全体、道路全体、皮膚の上、果ては空中にまで美麗な映像が映し出される社会に直面します。それは「仮想」ではなく「新しい現実」・・・人間の知覚・認識がそう判断します。歴史を振り返えれば写真が登場した時も絵画の衰退が、テレビが登場した時は写真の衰退が叫ばれましたが実際にはそれぞれの媒体の特長を活かして生存しています。「IT」も同様、今でこそ「IT依存症」とか「マイナンバーの悪用」とか「人間性の喪失」なんて騒いでいますが数年もすれば生活の一部になって誰も意識しなくなります。そこからが本番です。「うっとり探偵団」もデジタルの裏をかいて情感や幸福感や原風景といった細胞を直撃する「新しい現実世界」に挑みます。
     
風景には人を芸術家にする力が潜んでいる
 音や光を操って感動を創り出す芸術家・・・それは人間だけの営みをは限らない。
     
  単なる音や光や物質の固まりに過ぎないものが何かの拍子に「作品」と呼ばれて独り歩きする・・・もし芸術が太陽のような絶対的・物理的存在なら何時でも、誰にでも同じ作用をもたらす筈です。しかし一方では何も感じない人がいるということはそれは作品に芸術が宿っているのではなく「芸術」とは作品によって引き起こされる何らかの脳内現象とも言えます。それは何なのか?五感を刺激する信号が何故「芸術」になるのか、自然に対する感動や畏敬の念は芸術でないのか? そんな芸術と呼ばれるものの魔性に迫ります。
     





夢中で走ったあの頃へ
「人生は旅、風景は舞台なんてカッコいい言葉ですが一歩間違えるとホームレスでは?」

「生活基盤がないのがホームレス。基盤があって尚、もう一つの”舞台”を持っているのがうっとり探偵団です」

「外に愛人を囲うのも、もう一つの舞台と言えるんじゃないですか?」

「”囲う”という発想がいかにもですね。確かにある意味”風景”を愛人にするようなものかも知れません。但し”囲う”のではなく”囲われる”。人間を愛人にするのと違って、風景の場合は簡単ではないです」

「人間と違ってお金はかからないでしょう?何が大変なんです?」

「やれやれ。必要なのはお金ではなく”感性”と”好奇心”と人生観”・・・単純な話です」

「どうゆう意味です?」

「みんな子供の頃、海に向かって一目散に駆け出して波しぶきを浴びた原体験がある筈です。海も空も雲も輝いて見えた」

「海水の刺激に興奮しただけかも」

「確かに。ただ無我夢中で風景に飛び込んで行くというのは、生命の根源的な衝動・・・生命の輝きです。今も細胞の奥深くに息づいている」

「好奇心と感性とどんな関係が?」

「感性はアンテナの精度を上げる。好奇心はアンテナをピタッと向ける。風景には生命の根源に係る得体の知れない力がある・・・それを”受信”するために絶対条件です。俗な観光や行楽では決して得られない。だから価値なんです」

「何故みんなやらないんですか?」

「麻痺ですよ。日常に追われて知らない間に最も大事な生命アンテナが劣化・麻痺している。東日本3・11でそれを思い知らされた筈・・・日頃、生活や利害と関係がない世界には何の関心も好奇心を払わないツケとも言えます」

「厳しいですね。しかし生命アンテナの劣化・麻痺が命に係ると言うのは同感ですね。どうしたらそれを取り戻すことができるんですか?」

「ようやくまともな質問になったね明智君!ズバリ”うっとり探偵団”と一緒にバイクで”妖し”を求めて西東・・・なんて忙しい”民間人”には無理なので、このギャラリーを共有するだけでも脳と心の覚醒状態は続きます」

「隊員は何人くらいなんですか?」

「日頃コンタクトを取っているのは30~60人程度ですが、ネットワークやブログの反応数からは3500人位かも・・・特に入会資格も名簿なんて野暮なものもありませんからね。ただ事業ともなれば支援体制も必要になるし、その辺は若い女性を中心に目下準備中です」

「自分も入団します!」